――「論理」は翻訳できても、「論文」は翻訳できない――
はじめに
先日、本校ブログにて、「社会学者・渡邊雅子先生『「論理的思考」の文化的基盤』を英語教師の目で読む」という記事を公開しました。その中で私が強調したのは、「論理的思考とは普遍的な能力ではなく、文化的に形成された「型」である」という点です。今回はその議論を、より実践的な問題 ――「英語で論文を書くとき、日本語で書いた論文をそのまま英訳してはいけない理由」―― に接続して考えてみたいと思います。
1. 日本語で書いた論文を逐語的に英訳するとどうなる?
日本語で書いた論文を逐語的に英訳すると、文法的にも語彙的にも正確な英文になります。専門用語の処理も適切で、一見すると「よく書けた英語論文」に見えるでしょう。しかし、問題はここからです。
「正しい英語」なのに、評価されない…
この英訳論文をアメリカの大学に提出した場合、多くの場合、次のような評価に直面します。
- 主張がどこにあるのかわかりにくい
- 論点の整理が不十分
- 全体として説得力に欠ける
重要なのは、「これは内容のレベルや知的水準の問題ではない」という点です。問題は、論理展開の様式が日本語論文のまま英語化されていることにあります。
2. 論文は「情報」ではなく「文化的な言説」
渡邊雅子先生が示している通り、論理とは思考力の優劣ではなく、社会・教育・言語によって形成された文化的産物です。このことは、論文の構造にもそのまま当てはまります。
アメリカの学術論文では、
- 冒頭で明確な主張(thesis)を提示する
- 読者に「この論文で何を主張するのか」を最初に約束する
- その約束を守る形で論証を積み上げる
という構造が強く要請されます。
一方、日本語論文では、
- 問題提起から入り、議論を徐々に深化させる
- 読者と前提理解を共有しながら論点を浮かび上がらせる
- 結論は後半で自然に導かれる
といった構成が、「論理的」で「誠実」だと評価されることも多いのです。
3. 「翻訳」ではなく「再構成」が必要
したがって、アメリカの大学に論文を提出する際に必要なのは、日本語論文をきれいな英語に直すことではありません。
必要なのは、
- 主張の提示位置
- 論証の順序
- 読者との関係設定
といった、論理構造そのものを、英語圏の学問文化に合わせて組み替えることです。
これは翻訳(translation)ではなく、「論文の再構成(reconstruction)」と呼ぶべき作業です。
4. 実践編:「日本語で書く → 英語論文に作り替える」具体プロセス
では、実際にどのような手順で書き換えればよいのでしょうか。
ここでは、英語論文指導の現場で私が重視しているプロセスを整理します。
① まず「結論」を抜き出す(英訳しない)
最初に行うべきことは、翻訳ではありません。日本語の論文全体を読み、「この論文で最も言いたい主張は何か」を一文で言語化することです。ここでは日本語で構いません。むしろ、日本語で明確化できない主張は、英語でも書けません。
② アメリカの読者向けに主張を言い換える
次に、その主張を「アメリカの大学院生・研究者に向けて説明するとしたらどう表現するか」という視点で言い換えます。
- 暗黙の前提は省かれていないか
- なぜそれが重要なのかが明示されているか
- “So what?” に答えているか
この段階で、主張そのものが微調整されることも珍しくありません。
③ 構成を「結論先行型」に組み替える
日本語論文の構成をいったん解体し、英語論文の基本構造に再配置します。
- Introduction:結論と論文の目的を明示
- Body:主張を支える論点を順序立てて配置
- Conclusion:主張の意義を再確認
ここで重要なのは、元の段落構成にこだわらないことです。
④ その後に、初めて英語で書く
ここまで来て、ようやく英語で文章を書き始めます。この段階では、もはや「翻訳元の日本語」は参照しないこともあります。書いているのは、「日本語論文の英訳ではなく、英語論文そのもの」だからです。
⑤ 最後に、日本語論文との対応関係を確認する
仕上げとして、
- 内容的に重要な点が落ちていないか
- 日本語論文での核心が反映されているか
を確認します。
一致している必要はありません。等価であれば十分です。
5..英語教育に携わる私たちができること
英語教育の現場では、「結論を先に書きなさい」「もっと論理的に」といった指導がなされがちです。しかし本当に必要なのは、「どの文化の論理が、今ここで求められているのかを明示すること」ではないでしょうか。論理は能力ではなく、(渡邊先生いわく)モードの切り替えです。
6. おわりに
論理は「正しさ」ではなく「伝わりやすさ」。そして論文とは、「特定の学問文化が前提としている思考と表現の形式」です。
英語で論文を書くとは、日本語を英語に置き換えることではなく、「思考の配置そのものを、異なる文化空間に移植する作業」なのです。
この視点を共有できたとき、英語教育は語学指導を超え、知の越境を支える教育へと進化すると、私は考えています。